マインド・アトラクション

安西秀明

――好きな人とつきあえる。
それは想像していたよりもずっと幸せなことだった。だけど、二人きりでいられる時間はほとんどない。
姉さんの仕事が忙しいから。
まだ家族公認の恋人というわけじゃないから。
それでも、今は二人きりだ。
短い時間だけれど、一緒に楽しめる時間だった。

★☆★

うへへへ、ようこそ『デビルドロップ』へ。
目の前の塔の外側に椅子がついてるだろ?
それに座ったが最後、地上50メートルまでじわじわと連れてかれるのさ。
あとは地獄へ急降下だ!
生きて帰ってこれるよう祈ってるぜ、ひへへ。

※12才以下のお子様はお乗りになれません。

★☆★

――と、看板に書いてあったのを思い出す。マスコットキャラの悪魔が親指を立てて笑っている絵が描かれていた。

要は50メートルから落下するだけのアトラクションだ。だが、乗ってみるとこれが非常に怖い。
現在地上20メートル。
まだまだ上昇していく。
隣に座る姉さんの髪がふわふわと風に揺れている。日射しに照らされた姉さんは、とても輝いて見えた。

「ほらほら、あそこに麻衣ちゃんたちが」
地上に向けて、嬉しそうに手を振る。
「ほ、ほんとだ」
フィーナや菜月やミアがだんだん小さくなっていく。映像アトラクションに向かっているメンバーだ。
俺と姉さんだけが、絶叫マシンに乗るために別行動をとっていた。
「……もしかして無理につきあわせちゃったかしら?」
心配そうに俺を見つめながら、姉さんが言った。
「そんなことないよ」
姉さんと二人きりになれるなら、絶叫マシンくらいなんでもない。
デートみたいで、嬉しくなる。
「あ、あのもう限界です、ま、まだ上がるんですか……」
近くの女性が恐怖に震える声を絞りだす。
彼氏と思われる男性が『大丈夫だよ』と女性を落ち着かせている。
一度でいいから、あんな風に姉さんに頼られてみたい。姉さんをちらりと見ると、余裕のある笑みを返されてしまった。

『地上40メートル』

と書かれた小さな鉄の看板が視界の上から下へと消えていく。
身体が勝手に震えた。
「達哉くん、大丈夫?」
姉さんに心配されてしまった。これでは立場が逆じゃないか。
俺だって男なんだし、こういう時に頼れるところを見せたい。
「……全然、大丈夫だよ。姉さんこそだいじょ」

突然、落下。

「ぅぶうわあああぁぁ―――――――――――――――っ!」

情けない悲鳴が遊園地に響いた。


白い木製のベンチに姉さんと並んで座っていた。未だに体が浮いているような気がする。
「……情けないよな」
「そんなことないわ。絶叫するための乗り物なんだもの」
だけど姉さんは悲鳴を上げなかったじゃないか、と思う。
「そろそろ、みんなと合流しましょうか」
姉さんはスカートの裾を押さえて立ち上がる。
さっきの悲鳴のことを姉さんはどう思ったんだろう。
度胸がないと思ったかもしれない。
頼りにならないと感じたかもしれない。
そんな風に思われたままでいたくなかった。
「集合まで、もうちょっと時間あるよね」
姉さんは俺の声に振り返る。
「もうひとつ乗ってみない?」
「……絶叫系?」
俺が頷くと、姉さんは嬉しそうに微笑んだ。


がこがこがこがこ

ジェットコースターは大きな音を立てて鉄のレールを登っていく。
「うふふ、どきどきしてきたわ」
姉さんは上機嫌だ。怖がっている様子はまったくない。負けるわけにはいかない、と思う。
大丈夫だ、さっきのデビルドロップよりはましだ。
ジェットコースターは最初の急降下だけ耐えれば、後は問題ないはずだ。
さっきみたいな悲鳴は絶対に上げないぞ。
俺はそう心に決めて、安全バーをぎゅっと握りなおした。
後は、ジェットコースターが最高所に辿りつくのを待つだけだ。
「……どうしたの?」
姉さんが不思議そうに俺を見ていた。
「何が?」
「すごく真剣な顔してるから」
「それは……」
悲鳴を上げないように集中しているだなんて、
そんなこと格好悪くて言えない。
「あのね、達哉くん」
姉さんが顔の前に人差し指を『ぴっ』と立てる。
「こういうときは悪い方向に考えちゃだめなの」
姉さんが言い聞かせるように言う。俺がナーバスになっていると思ったのだろうか。
「大切なのは、これから始まる怖いことを楽しもうとすることよ」
姉さんはにっこりと微笑んだ。
「わかった?」
俺は頷く。
「……それから、もっと楽める方法があるのよ」
「へえ、どんな?」
「万歳をするの」
一瞬、姉さんが言った意味がわからなかった。
「ほらこうやって。万歳~」
姉さんは安全バーを離して両手を上げた。
もうすぐジェットコースターは落下する。
変な汗が全身から噴き出し、頭では危険信号が鳴り響いている。しかしここで負けるわけにはいかない、と思った。
俺は万歳をした。
その瞬間、ジェットコースターが風になった。


白い木製のベンチに姉さんと並んで座っている。
頭の中が真っ白だった。身体を動かす気にもなれない。
姉さんが俺の頭を撫でている。
「悲鳴なんて別に恥ずかしくないのに」
姉さんは、なぜ俺が落ち込んでいるのか分からないようだった。
頼られないばかりか、逆に慰められている。
その現状が俺の心に追い討ちをかけていた。
「ね、みんなと合流して、楽しみましょう?」
姉さんが笑顔で俺を覗き込む。
気を使わせてしまったのかもしれない。さっさと気持ちを切り替えなくては。
今日は姉さんの貴重な休日なのだから。
「そうだよな。他にも乗り物はいっぱいあるんだし」
「うんうん、ここからが本番よね」


――突然、電子音が鳴った。

姉さんの携帯の呼び出し音だった。
「……はい、穂積です」
姉さんは仕事用の声で、電話の相手と話す。
俺は白いベンチに座ったまま遊園地を眺めていた。子供連れの家族が楽しそうに目の前を通り過ぎていく。
電話を終えた姉さんが、俺を名前を呼ぶ。
そして、これから仕事に向かわなくてはいけない、と言った。姉さんは微笑んでいた。
それは、とても寂しそうな微笑みだった。


どこかで物音がした気がする。
目をあけると、天井が見えた。リビングの天井だった。どうやらソファで眠ってしまったらしい。
姉さんが帰ってくるのを待っているうちに、寝てしまったのか。時計を見ると十二時を過ぎていた。
俺はソファに座りなおそうと体を起こした。
「……だめよ、ちゃんと自分の部屋で寝ないと」
いつの間にかリビングの入り口に姉さんが立っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま、もしかして待っててくれたの?」
俺は頷いた。
「もう、無理しないでいいのに」
そう言いながらも、姉さんは嬉しそうだった。
「無理なんかしてないよ、寝ちゃってたし」
姉さんは、ゆらゆら揺れながら俺の隣にぽふり、と座る。お酒の香りがした。
「飲んできたの?」
「待っててくれてると思わなかったから。ごめんなさいね」
「俺が勝手にしてたことだし、気にしないで」
「……それと、ごめんなさい」
「なんで二回も謝るのさ」
「これはね、途中でいなくなっちゃった分」

――遊園地のことは、仕事なんだし仕方ないよ。

そう言って、さらりと流せるはずの会話だった。
でもそうしなかった。
姉さんが、とても申し訳なさそうな顔をしていたから。
まるで自分を責めているような顔だったから。
「せっかく、久しぶりにみんなで出かけられたのに……」
姉さんは家族との時間を大切にする人だ。
家族の団欒に水をさしてしまったことを、悔やんでいるのだと思う。
「謝らなくていいよ」
普通なら、姉さんほど罪悪感を持ったりしないだろう。でも、姉さんは傷ついてしまっている。
姉さんを癒してあげたい、と思った。だけど、どうすればいいのだろう。例えば、俺が辛いときに姉さんは何をしてくれたのか。
甘えさせてくれた気がする。
姉さんも誰かに甘えられたら、楽になれるのかもしれない。そう考えて、俺は姉さんの肩を抱えるようにそっと手を伸ばした。
「た、達哉くん……?」
「いいから」
姉さんは少し驚いたようだったけれど、抵抗はしなかった。一度だけ、ぎゅっと抱きしめてから、ゆっくりと体を離す。
「……あのね、姉さん」
俺は人差し指を『ぴっ』と立てる。
「こういうときは悪い方向に考えちゃだめだ」
俺は言い聞かせるように言う。
「大切なのは、ポジティブに考えることなんだ」
「……それって、もしかして私の真似かしら?」
姉さんがジェットコースターで俺に言ってくれた言葉だった。
「俺の大好きな人が言ってくれた言葉」
自分で言って耳が熱くなる。
姉さんの頬まで赤くなった。
「だから、またみんなで遊びに行こうよ」
「……でも、もしもまた途中で」
姉さんの瞳の中には不安の色があった。
「そうしたら、もう一度行こう」
俺がそう言って笑いかけると、姉さんは一瞬泣きそうな顔をした。そして、その表情を俺に見せないように、俺に寄りかかった。
姉さんの額が俺の胸にそっと触れる。俺は何も言わずそのままでいた。
それきりリビングは静かになった。時計の秒針の音だけが聞こえる。やがて俺の胸にあった姉さんの感触が下がっていく。
ぱさり、と姉さんの頭が俺の腿の上に落ちた。
「ね、姉さん!?」
すぅすぅと小さな寝息だけが聞こえる。
安心してくれたのだろうか。
そっと、姉さんの柔らかい髪を撫でてみる。
「……少しは、役にたてたのかな」
微かに姉さんが、呟いた気がした。

――ありがとう、と。

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