安西秀明
――もうすぐ、夏がくる。
こんな天気のいい日には、川の流れる音が心地よく感じられる。
通い慣れた河川敷。
学院が終わったという解放感で気持ちも晴れやかだ。
だけど――
「……菜月、ちょっと元気ないよな?」
「ん? そうかな、あはは……」
一緒に歩く菜月の足取りは、わずかに迷いの音を含んでいた。
幼馴染としてずっと一緒に過ごしてきたからこそ、やっとわかる程度の違い。
こういう元気のない菜月の姿は珍しい。
昨日、仁さんと話したことを思い出す。
トラットリア左門でのバイト中のこと。
仁さんがこっそり近づいてきた。
「達哉君、最近菜月がお風呂を覗くと怒るのだよ」
「何をしてるんですか、実の兄なのに」
「ははは、冗談だよそんな怒った顔をしないでくれたまえ」
「……別に怒ってませんよ」
「それはそうと、うちの菜月に見とれるのは仕事後のほうがいいんじゃないかな?」
「べ、別にそんなことしてないですよ」
そんなに菜月を見てしまっていたのだろうか?
「……仁さん。なんか菜月の様子おかしくないですか?」
「ほうほう。さすがは達哉君といったところかな」
腰に手を当てて、ニヤリと笑みを浮かべる仁さん。
「ダイエットってわけでもなさそうですし……」
「では、なんだと思うかね?」
どこか試すような口ぶりだった。
「ずっとなにか考えてるように見えますね」
「僕にもそう見えるね」
「でも、成績が落ちてるわけでもないだろうし……」
仁さんは、神妙な顔をして首を振った。
「達哉君、あれは思春期独自の悩みなんじゃないかな」
「思春期独自?」
「身体や心や女の子独自の悩みということだよ」
「すごく幅の広い悩みですね」
「というわけで、さくっと解決してくれたまえ」
「えっ、俺がですか?」
仁さんの顔つきが、いつもと違う真剣なものに変わる。
「達哉君。菜月のことが心配じゃないのかい?」
「……それは、心配です」
「悩みを一人で抱え込むのはよくないことなのだよ」
兄として菜月を心配しているのが、仁さんの声色から伝わってきた。
「菜月が僕に話すとも思えないしね。頼んだよ、幼馴染の達哉君」
ぽんっ
後は任せた、とでも言うように肩を叩かれた。
川を眺めながら歩く菜月に、再び声をかけた。
「菜月、何か悩んでるのか?」
「えっ?」
菜月が、どきりとした表情を浮かべる。
「一人で抱え込むのはよくないと思う」
「達哉、なんで知ってるの……?」
「最近元気ないみたいだからさ」
「そっか、達哉にはわかっちゃうんだね」
「俺でよければ相談に乗るよ。思春期の悩みなんだろ?」
「……ほえ?」
「女の子とかの悩みなら、麻衣や姉さんに言ってもいいしさ」
菜月がおでこに指を当てて眉を寄せる。
やはり俺には言いにくいことなのか?
「なんで達哉は、思春期の悩みだって思ったのかな?」
菜月が笑顔を浮かべて俺に聞く。
目が笑っていなかった。
「仁さんが、思春期の悩みだって……違うのか?」
「でたらめで恥ずかしいこと、達哉に吹き込むなー!」
菜月が空に向かってしゃもじを投擲した。
ここから投げて果たして仁さんに届くのだろうか?
「そんなわけないよな……」
「ん?」
「いや、でもさ菜月が悩んでるっていうのは本当なんだろ?」
「……うん。まあ、そだね」
「俺に話せないようなことなら、これ以上聞かないけど」
少し迷ったように考え込む菜月。
「……達哉にしか、言えないことかな」
「それなら、なんでも話してみろよ」
菜月が軽く下唇を噛む。
そして決意したように、ゆっくりと唇を開いた。
「幼馴染のことが、好きになちゃったの」
一瞬なんのことだかわからない。
「……菜月、そんな目で、俺の……、いや、どう言ったら……」
菜月が、きょとん、とした顔をする。
ぼんっ
音を立てて菜月の顔が瞬間沸騰した。
「私じゃなーい。私に相談した子がそう言ったのっ!」
「あ、ああ、なるほど。違う人の話か。いきなりだったんでびっくりした」
心臓に悪い。
「それでね、その幼馴染を好きになった子が告白するのを迷ってるの」
「なんで迷うんだ?」
「相手の気持ちがわからないから」
菜月が俺から視線を外し、焼けたアスファルトを見つめた。
「それは普通わからないと思うぞ」
「だから、同じように幼馴染がいる私の気持ちを聞きたいんだって」
「なるほどね」
「幼馴染を恋人として考えられる? って聞かれたんだけど、答えられなかったの」
「それで菜月は悩んでたのか?」
「うん……」
菜月が、真剣な様子で俺をじっと見る。
「達哉の意見も聞いてみたいな」
俺の幼馴染に対する気持ち……。
ずっと一緒にいた菜月。
いるのが当たり前になっている。
「……俺は、その、ずっと一緒にいたから。すぐに恋人だと思うのは難しいのかもな」
いまいち想像ができないというのが正直なところだ。
「菜月はどう思うんだよ?」
俺の言葉に、なぜかふらふらと視線をさまよわせる菜月。
「私も、いきなり恋人みたいになるのは難しいと思うんだけど」
一瞬、ちくりと胸を刺されたような気がした。
「なら、そのまま伝えればいいと思うけど。それじゃ駄目なのか?」
「うーん……」
再び困った表情を浮かべる菜月。
「私が難しいと思うって答えたら、その子は告白するのやめちゃうと思うの」
菜月はそれで即答出来なかったのか。
質問には答えられるけど、それが悪い結果になるのがわかっていたから。
「それなら、伝えなければいいじゃないか」
俺の言葉にむっとする菜月。
「それじゃ相談に答えることにならないでしょ? 達哉、真面目に考えてる?」
「いや、すごく真剣だよ。ええと、つまり……」
言い方がまずかったようだった。
「その相談してきた子は、告白したいのに迷ってるんだよな?」
「うん。そうだけど」
「それで、菜月に相談してきた」
菜月が小さく頷いた。
「つまりそれってさ、告白の後押しをしてほしいだけなんじゃないのか?」
「……え?」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をする菜月。
「そうなのかな?」
俺は菜月に頷く。
「俺はそうだと思うよ」
「じゃあ、私は告白を応援してあげればいいの?」
「質問に答えるよりよっぽど、その子の力になれるだろ?」
「あー、そうかもしれない。なるほど」
指を頬に当てて少し考える。
「そっか。応援してあげるのが一番いいよね……」
菜月が呟きながら、頷いた。
「うん、そうしてみるよ」
そう言って、明るい笑顔をみせた。
「ありがとね、達哉。なんかすっきりした気がする」
「それはよかった」
いつも通りに戻った菜月の顔。
さっきよりずっと輝いて見えた。
「ん……?」
その表情を見ていて、頭の中に疑問が芽生える。
今度は俺の足が歩みを止めた。
「あれ。達哉どうしたの?」
菜月の長い栗色の髪が、俺を気にして揺れる。
「なんで俺達はお互いになんとも思わないんだろう?」
「えっと、好き、とかそういうことかな?」
「まあ、そうだな……」
「さっき達哉が言ってたじゃない。ずっと一緒にいるから難しいって」
物心ついた時からの付き合い。
小さい頃にはお風呂にだって一緒に……。
「菜月と過ごした時間が長いから、慣れてるのかもしれない」
「見飽きてるってこと?」
じと目を向けられる。
「ちょっと違うと思う」
「ほうほう」
「どちらかといえば、俺達は家族みたいになってるような気がする」
「……家族か。うん、そだね。近いかも」
「普通はさ、異性のクラスメートと二人きりでいるだけで意識したりするんじゃないか?」
「私と達哉じゃ、いるのが普通って感じだよね」
「そうだな。学校でもバイトでも一緒だしさ」
「寝てる時以外はずっと一緒だもんね」
寝ている時だって、窓を二枚挟んで向かいの部屋だったりする。
「あはは、やっぱり家族みたいになってる」
「そうだな。まったくだ」
菜月につられて笑った。
「こうして一緒に帰ったりしたら、普通はどきどきしたりするかもねー」
俺の顔をじっと見て言う。
「あー、そうかもな。俺達が見つめあっても何が起こるでもないし」
菜月の顔を見る。
「あははは、そだね。こうやって近づいても、見慣れた顔があるだけでさ」
菜月が笑いながら、顔を近づけてくる。
見慣れた顔が目の前にある。
「菜月がアップになっただけだ」
「何とも思わないもんねー」
いつもと違う距離。
たぶん、一歩だけ近い。
いつもより菜月の目が大きく見える。
「……菜月ってさ、結構目が澄んでるよな」
「え、えっと、あー、何言ってるのかな?」
菜月の頬が少しだけ桜色に染まる。
なんでだ?
何も思わないはずなのに。
「……な、なんでもない。ほら、菜月がいつもより近いから見やすいだけで」
「達哉、今ちょっと近づいた?」
お互いの靴の先がこつり、触れる。
「いや、ほ、ほらな。こんなに近づいても、何とも……」
「うん、何も、ね……」
菜月の顔がさっきより赤くなったような気がする。
小さな呟きでさえ、とても大きく聞こえる。
「……なんでだろ。目の前で達哉の顔見てるとね、懐かしい感じがする」
昔、菜月とこんな遊びをよくしたっけ。
「にらめっこだ」
小さい頃は、菜月の髪がいい匂いだなんて思わなかったけど。
「じゃあ、逸らした方が負けなの?」
菜月の息が俺の肌をくすぐる。
「そうするか……?」
俺の言葉で菜月の髪がふわりと揺れる。
「ま、また少し近づいた、かな?」
菜月の顔が沸騰寸前に赤い。
でも、沸騰しているわけじゃない。
「菜月はこれだけ近くても大丈夫、なんだろ」
「だって、達哉相手だもん。私はへーき、だと思う、よ?」
「なんかさ、我慢してないか?」
「達哉の顔が、おもしろいからだよ、うん」
俺の顔がおかしくて笑いを堪えてるだけなのか。
「……菜月の息が、くすぐったい」
鼻先が触れ合いそうだ。
菜月が真っ赤になって震えている。
「……そ、そだね。でも、なんともない、でしょ……?」
泣き笑い、そんな表情。
目にうっすらと涙が浮かんでいた。
「…………」
堪えてるのは、笑いじゃない――。
顔が沸騰するのを堪えている菜月。
「ん……、達哉も、なんとも、ない……よね?」
だめだ、そんな菜月を見ていたら気が変になりそうだ。
間違って、幼馴染を意識しまいそうに――。
「……菜月、これ以上近づくと、俺は……」
「ん、な、ななに?」
「……菜月のことを」
にらめっこのギブアップ。
菜月から逸らした視線の先に、仁さんが見える。
仁さんが見える。
仁さんが見える!
「仁さんが見えるっ!?」
「当たり前だよ達哉君。僕はステルスじゃないのだよ」
振り返る菜月。
仁さんを確認。
「ななななっ!」
ぼんっ!
菜月が堪えられなくなって一気に沸騰する。
俺から離れるように飛びのいた。
「やれやれ、遠くからしゃもじが飛んできたから何をしているのかと思えば」
仁さんが、頭をさする。
この距離から当たってたのか……。
「二人がまさかここまでの関係になっているとはね」
仁さんがニヤリと口の端を歪める。
「ちちち違いますよ。にらめっこなんです」
「そうそうそうそう」
必死に菜月と二人で否定する。
その様子に仁さんが目を細める。
「悩み解決で付き合うことになったんだね。それとも……」
「仁さん、本当に違いますから!」
「実は達哉君との恋の悩みだったのだね。いや、一線を越えられてなによりだよ」
「一線とか言うんじゃなーい!」
慌てる菜月を確認して、仁さんが真面目な顔を俺に向ける。
「達哉君、もういっそ義兄様って呼んでいいんだよ?」
「な、なんで結婚したみたいになってるんですか!」
「けけけ結婚っ!?」
ぼんっ!
菜月が再び瞬間沸騰。
「ほら達哉君、菜月もまんざらではないようだしね」
「まんざらだーっ!」
どがんっ!
「あーれー」
菜月の一撃によって、仁さんは一瞬で真昼の星となった。
「はぁー。まったく……」
菜月がため息を吐く。
俺たちの間に、川の流れる水音だけが残る。
何て声をかければいいのかわからない。
沈黙に耐えかねたように菜月が口を開いた。
「兄さんが言うようなこと、何もないのに、ね?」
俺の菜月への気持ちは――。
最後に菜月の目から視線を逸らしたあの時に。
陽炎みたいに、揺れたのかもしれない。
「達哉……?」
覗き込む菜月の顔に、まだ少し沸騰の名残がある。
「い、いや、ないない。仁さんの勘違いだもんな」
「そ、そうだよね、うん」
どこか気まずいような、それでいて心が躍るような感覚。
「達哉、そろそろ、いこっか……?」
「あ、ああ、そうだな」
お互いの歩幅を気にしながら、二人で歩き出す。
「達哉と、にらめっこしてただけだもんね?」
俺をちらりと見る菜月。
「そ、そうだよな、恋人みたいじゃ、なかったよな」
そう言い合いながらも、いつもと少しだけ違う距離。
一歩だけ、近づいた。
そんな感じがする。
――もうすぐ、夏がくる。