台所外交

内田ヒロユキ

レシピ帳を閉じ、壁の窓を見上げる。
広がるのは果てのない漆黒の宇宙。
その黒さは、かえって朝霧家の屋根裏部屋から見た青空を思い出させ、少し物悲しい。
「皆様はお元気でしょうか……」
屋根裏部屋より狭いメイド用の個室に、独り言が漏れた。
朝霧家の皆さん、
鷹見沢家の皆さん、
商店街の皆さん……
地球で出会った人たちの顔が、瞼の裏に浮かんでは消えていく。
王宮に戻って約一年。
地球での思い出は消えることなく、いよいよその輝きを増していた。
今すぐにでも地球へ飛んで行きたいが、ただのメイドである自分にそんなことができるわけもない。

こんこんっ
不意に扉がノックされた。
「カレンです。ミアはいますか?」
「カレン様っ」
慌ててドアを開く。
そこには、一ヶ月前に地球へ向かわれたカレン様がいらっしゃった。
「いつお戻りになったのですか? 地球はいかがでしたか? 皆さんお元気でしたか? 左門は繁盛していましたか?」
「そう慌てなくても私は逃げませんよ」
カレン様が苦笑される。
「申し訳ありません……」
すぐに一つのことで頭が一杯になってしまうのは悪い癖だが、今回は仕方がないと思う。
現在の王宮で、地球の状況をお知らせ下さるのはカレン様だけ。
今回のご帰還も、それこそカレン様が地球へ出発された瞬間から楽しみにしていたのだ。
「ともかく、お入り下さい」
「ええ、失礼します」
笑いをかみ殺しながら、カレン様は手近なイスに座った。
「先ほどの質問についてですが、私が帰ってきたのは昨夜です。朝霧さんのお宅は皆様お元気でした……」
カレン様が話し始めた地球の状況を、息をするのも忘れて聞き入った。
「今回は、ミアにと預かったものがあります」
「わたしに、ですか?」
「はい、麻衣さんからです」
と、手渡されたのは2、3センチはあろうかという厚い封筒だった。
「これは……」
一瞬で中身が分かった。
麻衣さんは約束を覚えていてくれたのだ。
「開けてよろしいですか?」
「ミア宛のものですから、私の許可は必要ありません」
「あ、申し訳ありません」
そう言いながら、早くも手は机のペーパーナイフを探している。
「私は外した方が良さそうですね」
「いえ、ご覧頂いても大丈夫です」
イスから立ち上がりかけたカレン様を止める。
「いったい何が入っているのですか?」
ペーパーナイフを走らす。
中にはA4サイズの紙束。
それらには、料理の作り方が書かれていた。
つまり……
「レシピです、麻衣さんオリジナルの」


「ミアちゃん、今日の晩ご飯どうしよっか?」
「昨日のまかないは重いものが多かったですから、今日は軽いものが良いのではないでしょうか?」
「う~ん、軽いものねえ……」
「はい……」
言葉が途切れる。
月へ帰還する日は、もう間近に迫っていた。
表面上はお互いに隠している惜別の情が、ふとした瞬間に交錯して言葉を失う。
最近、こんなことが増えていた。
「こういうときは、アレ使おっか」
「そうですね。アレいきましょうか」
ウィンクを一つしながら、麻衣さんがキッチンの引き出しから取り出したのは一冊のレシピ帳だった。
献立に詰まったとき、味付けが上手くいかないとき……
この本には幾度となく助けられてきた。
なんでも、麻衣さんがお母様である琴子さんから受け継いだものらしい。
わたしにも、お母様からもらったものがあるが、地球ではあまり使ってはいない。
一つでも多く地球の料理を覚えたいからだ。
「これをパパッと開けば~♪」
そこには、栄養バランスまで緻密に計算された献立が載っている。
「今日はこれと出ましたよ」
銀鱈の西京漬け、筑前煮、ホウレンソウの白和え、香の物、味噌汁、ご飯。
「美味しそうですね」
「感謝しますお母さん」
はは~、とレシピ帳を拝む麻衣さん。
こうして今日の献立も一件落着。
「本当に頼もしいレシピですね」
「いつも、お母さんには助けられてばっかり」
「麻衣さんも新しいレシピを追加しているんですよね?」
「ちょこっとだよ。ほとんどはお母さんが書いたものだから」
恥ずかしそうに笑う麻衣さん。
「でも、ミアちゃんが教えてくれたのは全部追加してるよ。貴重な月料理のレシピだし……思い出になるから」
「……ありがとうございます」
〝思い出〟という単語に反応してしまい、うまく笑えなかった気がする。
そんなわたしに、麻衣さんは困惑気味の笑顔を浮かべた。
「……ええと」
「ま、麻衣さん」
鼻がツンとしてしまう。
「そーだ、ミアちゃん」
明るい声を出す麻衣さん。
「は、はいっ」
「このレシピ帳、月に持っていってよ」
「ええっ」
想像もしていなかったことを言われた。
「で、でも、それは麻衣さんがお母様から」
「そうだけど、月に地球の料理を伝えるきっかけになれば、きっと母さんも喜ぶから」
「こういうものは軽々しく外に出してはいけません。この家の味を引き継ぐのは、ずっと台所を守ってきた麻衣さんであるべきです」
「一緒に守ってきたでしょ?」
「麻衣さんに比べれば短い期間です」
「時間の長さじゃないよ。わたしたちは家族だったんだから、ミアちゃんにだってこのレシピを持つ権利があるはず」
なかなか引いてくれない麻衣さん。
「では、わたしもお母様から頂いたレシピがありますから、交換するということでいかがでしょう?」
「ダメ」
即答された。
「ミアちゃんのお仕事じゃ、レシピはそれこそ家宝でしょ。なんていうかスッポン屋さんの鍋みたいな?」
「はい?」
例えが分からない。
「ともかく、交換はなーし」
「レシピ帳が家宝なのは厨房に立つものなら同じです。わたしも琴子さんのレシピは受け取れません」
「強情な……」
麻衣さんが手をわきわきさせる。

「麻衣さん、手つきがいやらしいのですが」
「手つきだけだと思ったら大間違いでーす」
そんな、すっぱりと言われても。
「や、やめて下さい……」
「”極楽めぐり”に五分耐えられたら、交換ということで手を打ってあげるから」
「ひっ」
極楽めぐり。
要はくすぐり攻撃だが、一分と耐えられた試しがない恐ろしい技だ。
「いっくよ~、わしゃしゃしゃしゃしゃ」
「やめてっ……あ、きゃわわわっ……」
「ほりゃほりゃほりゃほりゃほりゃ」
「きゃうっ、だめです……」
「どうじゃ、どうじゃ、どうじゃ、どうじゃ」
「そ、そう、コピーしましょう、コピー。お互いコピーすればいいじゃないですか」
ぴたり、と攻撃がやんだ。
「あ、そっか。レシピを共有しちゃえばいいんだよね、家族なんだし」
「は、はい……そう思います」
お互いの手元に原本は残るから、直系の面子は保たれる気もする。
「じゃあ、早速明日あたりコピー行こうか。善は急げってね」
「はい、そうしましょう」
「おそろいのバインダーも買おうよ、コピーしただけじゃバラバラになっちゃうからね」
「あ、でしたら……」

ふと、良い考えが浮かんだ気がした。
「なに?」
「こういうことを言うのは、ちょっと寂しいのですけど」
「ミアちゃん……」
麻衣さんが、すっと表情を引き締めた。
「いいよ、言って」
「わたしが月に帰ってからも、定期的に……一年に一回とかそのくらいでいいのですけど、新しく追加したレシピを交換しませんか?」
麻衣さんがじっとわたしの顔を見た。
「今までのレシピを共有するだけじゃなくて、これからも共有できたら、嬉しいって言うか、ええと……」
喋っているうちに頭がこんがらがってくる。
「あの、わたし、月に帰っても頑張ってますよっていうのを麻衣さんに見てもらいたいですし……麻衣さんが地球で頑張ってらっしゃるのも知りたいんです」
なんだか視界がぼやけてきた。
鼻もツンツンする。
「だ、だから……これからも、一緒にお台所で頑張りましょう」
そこまで言ったときには泣いていた。
「ミアちゃん……」
「はいっ」
麻衣さんの腕がわたしの頭を包んだ。
温かく柔らかな感触に包まれ、何も言えなくなる。
「いい子だね」
「あ、ありがとう……ございます……」
「一生使えるように、頑丈なバインダー買わないとね」
「はい、辞書くらいに厚いのを買いましょう」


「そういうことがあったのですか」
一通り話し終えると、カレン様は目を細めた。
「はい。でも、こうして実際に届けて頂けるなんて感激です」
麻衣さんが送ってくれたレシピを、しっかりとバインダーに綴じる。
三十枚近くはあったが、ぶ厚いバインダーにはまだまだ余裕がある。
「いつか、綴じられないほどレシピが増えると良いですね」
「麻衣さんとわたし、どちらが早く相手のレシピ帳を溢れさせられるか競争です」
「次は、ミアから麻衣さんにレシピを送る番なのでしょう?」
カレン様が優しい表情で言って下さった。
「はい。あの、大変恐縮なのですが……」
机の引き出しから、この一年で新しく考案したレシピを取り出す。
「もしお時間がございましたら、麻衣さんにお渡し頂けないでしょうか?」
「分かりました。次に地球に行く機会がありましたら、必ず届けましょう」
カレン様は、笑顔でわたしのレシピを受け取って下さった。
ホームステイでお近付きになれたとはいえ、わたしの身分を考えれば破格の対応と考えねばならない。
「ありがとうございます。ただでさえお忙しいのに、このようなことまでお願いして」
「王宮の食事がより良くなるのでしたら、この程度の労は厭(いと)いませんよ」
カレン様は笑って言って下さった。
「では、さっそく今夜から新しいレシピを活用させて頂きますね」
「ふふふ、期待していますよミア」
そう言って、カレン様が椅子から立ち上がる。
「わたしも厨房に」
やや厚みを増したバインダーを胸に抱く。
なんだか、麻衣さんがすぐ側で見ていてくれている気がした。
『麻衣さん、一緒に夕食を作りましょう』

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