榊原拓
ここは月面にある連絡港。
たった今、地球から到着した往還船を降りた私達は、閑散としたロビーで点呼を行っていた。
「満弦ヶ崎大学、穂積さやか」
「はいっ」
私の名前が呼ばれ、元気よく返事をした。……つもりだったけど、少し緊張した声が出てしまった。
ま、仕方ないか。
だってここは、長い間、ずっとずっと空を見上げて夢に見ていた地なのだから。
満弦ヶ崎大学に入って二年目。一応月学部で月に関して学ぶ身ではあるものの、外交や政治経済のプロフェッショナルに混じって、まさか自分が第一期の留学生に選ばれるとは思わなかった。
教授から呼び出され、選抜に合格したという知らせをもらった時の興奮は、今でも思い出せる。
「それでは、これから皆さんには宿舎へ移動して頂きます。まずは滞在中にお使いになる部屋の確認と、私物の整理を行って下さい。女王陛下への謁見は二時間後です。それでは、こちらへ」
今ここに集まっている人の中では、私は一番若いくらいだと思っていたけど……月側で私達の案内役をしている女性もかなり若い。毅然とした態度だからそうは感じさせないが、きっと同い年くらいじゃないかしら。
私も頑張らないと、という気にさせられる。
月へ持って来る荷物は、地球を出る時にかなり念入りにチェックされた。おかげで、こっちの連絡港からはスムーズに出られるようだ。
「わぁ……」
連絡港を出た時に空を見上げると、そこには黒い空が拡がっていた。
そしてそこに浮かぶ瑠璃色の地球の明るいこと。
地球から見上げた月と比べると段違いの明るさに、思わず少し目を細める。
想像していたのよりも、ずっとずっと輝いて見える地球。
私は、そこを代表して来たのだ。
案内された宿舎は、新しめでシンプルな建物だった。
ここに、地球からの留学生がまとめて住むことになるらしい。
「集合は一時間半後、場所は一階のロビーです。遅れないようにして下さい」
大きな電気バスから各自の私物がポーターの手によって下ろされる。
そこから自らの荷物を取り出すと、宿舎内の案内図と部屋の割り振り表が配られ、一旦解散となった。
「謁見の後に市内は案内しますので、今はまだ宿舎の外には出ないようお願いします」
案内役の女性の声を背中に聴き、私は割り当てられた部屋へと向かった。
ぽす
ベッドの、ピンと張ったシーツの上にアタッシュケースを置く。
あとは、小さいスーツケース。
何が入っているのか、大きなケースを何個も持ってきた留学生仲間もいるけど、私が持ってきた荷物はこれだけだ。
私物の整理も必要ない。
新築なのか改装したのか、かすかに壁紙を貼る糊の香りがする室内は、白を基調としたシンプルな家具でまとめられている。
シンプルなのが月流なのかしら。
ベッドに横になろうかとも思ったが、往還船に乗り込んで地球を発ってから7時間の旅では、全く疲れていなかった。
表に出さないよう苦労しながらも、疲れる暇などなく、窓から地球や月を見ては興奮していたのだ。
……ちょっとだけ、宿舎の中を歩き回ってみようかな。
集合時間がわかるように時計を確認し、私はそうっと廊下に足を踏み出した。
硬くて毛足の短い絨毯が、ちょうど足音を消してくれる。
他の皆は私物の整理中なのか、廊下にいるのは私だけだった。
階段を降り、一階のロビーに着く。
当然のようにまだ誰もいないロビーでは、TVがニュースを垂れ流していた。
私達のこともニュースになってたりして。
などとも思ってみたが、連絡港には一般人はおろか報道関係者の姿も無かったことを思い出す。
もしかしたら私達の留学はあまり歓迎されていないのでは、といった考えが首をもたげるが、ネガティブな思考は頭から追い払うことにした。
一階には、簡単なフロントのようなところはあるが、今は誰も人はいない。
――敷地から、出なければいいのよね。
玄関から、狭いながらも庭がある方へと回ろうとする。
衛兵こそいないものの、一度閉じてしまえば、容易には開けなさそうな門扉。
門の両側には、大きくて重そうな石を使って作られた塀がそびえている。
それも、その高さのまま敷地をグルーッと回っているのだから、城か刑務所かといった風情だ。
この塀の中を外を守るためなのか、それとも中から外を守るためなのか。
どちらにせよ、こういった塀が必要無いような関係を、地球と月の間に築いていきたいと思う。
この高くて厚い壁は、は両国の心の壁を表しているのだ。
「こんにちは」
その閉じきってない門扉の隙間から入ってきたのだろうか、見ると、中学生くらいの女の子が私に話し掛けてきた。
「こんにちは。どうしたの?」
迷って入り込んでしまったのだろうか。
誰かに知らせるべきかそれとも門の外まで案内すべきか、ほんの少しの間迷っていると、少女の方から話し掛けてきた。
「あの、不躾な質問で申し訳無いのですが」
「いえ、どうぞ」
年齢不相応な立ち居振る舞いと、年齢相応の瞳の輝きがアンバランスな子供だ。
「あなたは……地球から来た留学生の方ですか?」
「ええ、そうですよ」
簡単に身分を明かしていいものか、などとは考えなかった。
少女の真っ直ぐな眼差しは、こちらも正直に、正面から話をしなくてはいけないような気にさせられたから。
「ひとつ、教えてほしいことがあるのです」
その、清流の淵のように深く澄んだ碧色を湛えた瞳が、さやかの瞳を遠慮がちに覗き込む。
「このような遠い地まで、あなたはなぜ来るおつもりになったのですか」
「それは――」
地球で行われた事前研修では、想定問答集を繰り返し練習させられた。
この質問に対しては、
『両国の平和的交流の発展により、数百年前の悲劇を繰り返さないよう、互いの理解を深め合うことの重要性に思い至り、志望しました』
と答えることになっていた。
が……今ここで少女が求めているのは、こういった形式的な答ではないだろう。
空に浮かぶ、マイナス20等級近い地球をもう一度見上げる。
眩しい。
数瞬、あの眩しい星に住んでいる『家族』の顔を思い出す。
「私には、あなたと同い年くらいの弟がいるの」
もしかしたら、この聡明そうな少女も、私の口からは形式的な回答しか出ないことを覚悟していたのかもしれない。
私の口から出た言葉に、ほんのわずかだが、瞳の輝きが増した気がする。
――きっとこの少女も、生まれてからずっと、空を見上げてあの眩しい星を見てきたに違いない。
そこにいるのはどんな人なのか。
理解し合うことができるのか。
そんな不安に、小さい胸を震わせていたのかもしれない。
「その弟がね……あなたのような女の子と仲良くなれるような世界になるといいなと思って、月に来たのよ」
心の底からそう思っている。
だから、きっと最高の笑顔になれたと思う。
私は、自然に少女の頭を撫でていた。
「あ……」
少し俯き、ちょっと頬を赤く染める少女。
「ありがとうございました」
そう言ってぺこりを頭を下げると、彼女はさっと身を翻し、門扉の間をすり抜けるようにして敷地の外に出て行った。
それからさっきのロビーに集合し、私達『月-地球交換留学生』第一期生は、電気バスに乗って王宮へと向かった。
皆、身だしなみもパリッと整えている。
地球連邦には存在しない「国王」という位には、今回の交換留学をはじめとして、地球との交流に積極的なセフィリア女王が就いている。
幼い頃からの夢だった月へ私が来られたのも、ひとえにこの女王様のおかげだ。
政治・経済面でも旧来の勢力との軋轢を恐れずに改革を続け、次々と成果も出しているということで、連邦側も一目置く存在の彼女への謁見。
私達留学生にとっての、最初に乗り越えなくてはならない、メインイベントだ。
粗相は決して許されない。
「……!」
誰も表立って声には出さないが、その歴史と伝統を感じさせる王宮の外観・内装には、皆が息をのんだ。
何重にもなっている警備。
そして何重もの扉を潜る。
ふかふかの絨毯に脚を飲み込まれそうな感覚と戦いながら、謁見の間に向かう私達。
一人一人の一挙手一投足に、王宮内に仕える全ての人々の視線が注がれているのを感じる。
そんな永劫とも思われた廊下の旅が、やっと終着点を迎えた。
重厚そうな扉が、これまた重厚そうなきしみを上げて開かれる。
――謁見の間だ。
周囲を取り巻く、貴族や官僚と思しき人達。
わずかな乱れも無く整列する警護の衛兵。
まだ、玉座には誰も座っていない。
私達が整列し終えると、頭を下げるよう指示がある。
床の繊細なタイル模様をじっと眺めていると、女王陛下だろうか、微かな足音と衣擦れの音が玉座に向かった。
「遠路はるばる大儀です。顔を上げて下さい」
この広い謁見の間に、朗々と響くセフィリア女王の声。
促されて顔を上げかけ、その緊張も極度に達した時……
私は、危うく、吹き出しそうになってしまった。
――だって。
小さな冠。
王家の証の青色を使ったドレス。
スカートにはアーシュライト家の紋章。
セフィリア様の隣に控え、淑やかにこちらを見やる少女。
どう見てもセフィリア様の娘、つまり月王家のプリンセスであらせられる彼女は、さっき私が頭を撫でた女の子だったのだから。