内田ヒロユキ
フルートの軽やかな音色が川原に流れている。
夕暮れも迫った7月のある日。
俺は麻衣の隣に転がり、眠るでもなく目を閉じていた。
こうして麻衣の練習に付き合うのは何度目なのか──
ふとそんな疑問が浮かんだが、答えは出ず、すぐに頭の中から追い出した。
「ふう」
麻衣が一つ息をつく。
曲が終わった合図だ。
俺はのろのろと上半身を起こす。
「お疲れさま。上手くなったんじゃないか?」
「そう言えるほど、ちゃんと聞いてくれてたの?」
にぱっと笑いながら麻衣が言う。
「ちゃんとかどうかは分からないけど、上手くなったのは分かったよ」
「えへへ、本当かな」
はにかんだ表情からは、隠しようもなく嬉しさがにじんでいた。
「でもさ、そんなんでよく音出せるよな?」
フルートの唄口を見ながら言う。(唄口=息を吹き込むところ)
金属のパイプに1枚鉄板を貼ってから穴を開けただけの構造。
それで澄んだ音が出るのだから、まったく不思議なものだ。
「吹いてみる?」
「音出せるかな?」
「試してみたら分かるって」
曖昧に頷き、麻衣から楽器を受け取る。
繊細な銀細工のような作りに、自然と手が震えた。
そんな俺の手を、麻衣が正しい持ち方に直してくれる。
「さ、ふ~って」
「ふ~」
恐る恐る息を吹き込んだフルートからは、そのまま「ふ~」っと音がした。
出ないぞ、と目で訴える。
「角度を、こうして……」
麻衣が、俺の後ろから手を伸ばしてフルートをひねる。
「じゃ、もっかい」
軽く頷いて息を吸う……
「ああっ! 間接キーーーーーースっ!!」
「ええっ!?」
兄妹、同じ声を発して振り向く。
シンクロだったら満点の動き。
「やほ~い」
びしっと挙手する遠山。
「こ、こ、こんにちは、遠山先輩」
「なんだ、遠山か」
「『なんだ』とはなんですかっ! 遠山さんの登場ですよ……むしろ爆誕? 発生?」
「降臨でお願いします」
「ハハハ、わかってるなぁ麻衣は」
胸を反らしてご満悦の遠山。
まあ、遠山の扱いは分かっているのだろう、同じ部活だし。
「それはそれとして……」
遠山が人差し指で麻衣のおでこをつっつく。
「白昼堂々とは……いやはや、風紀も乱れたものですナ」
「そそそ、そんなんじゃないですよ。や、やだなぁ」
麻衣がパタパタと手を振って否定する。
「当たり前でしょ、兄妹なんだから」
しれっと言う遠山。
そりゃそうだ、兄妹で間接キスを意識している方がおかしい。
「あ……」
気の抜けた声を出して麻衣が俯く。
見る見るうちに、首筋が朱に染まった。
「もしかして、意識しちゃってた?」
いくぶん驚いた表情の遠山。
なんか嫌な予感がして、俺は二人の間に割って入った。
「まあ待て、別にホラ、騒ぐほどのことじゃないだろ?」
「ふぅむ」
遠山が眉間にしわを寄せる。
しばしの沈黙。
その間、麻衣はバツが悪そうに地面を見つめていた。
「んじゃ、やってみようっ!」
遠山が、持っていたクラリネットを組み立て、俺に突き出す。
「ええっ!?」
当然のごとくたじろぐ俺。
「さあ来いっ! 騒ぐほどのことでないのならっ!」
ずずい、と詰め寄ってくる遠山。
「あ、いや、あの……遠山さん?」
「さあさあさあさあっ」
「どうしたの? できないの? して下さいっ!」
なんか最後はちょっと違う。
「ぐ……」
遠山が俺の目をじっと見る。
「ま、勘弁してあげよっかな」
口元に猫みたいな笑みを浮かべて、遠山が一歩下がる。
「……すいませんでした。今後、発言には注意します」
「分かればよろしい。そなたらも公然と間接キスをするのは避けるようにナ」
鼻息荒く遠山が言う。
「ふぉーほっほっほっほっ」
「あの、遠山先輩……」
悪は成敗した、とばかりに立ち去ろうとする遠山を麻衣が止める。
「わーってるって、別に意識してたワケじゃないんでしょ?」
「あ……」
ちらっと麻衣が俺を見て──
「はい……当たり前じゃないですか」
笑顔で答えた。
「すごいパワーだな、遠山は」
「うん……元気だよね」
どっしりとした疲労を感じて、俺たちは並んで土手に腰を下ろす。
いつの間にか夕闇は濃くなって、周囲が橙色に染められていた。
「驚いたな」
「え? あ、うん」
俺の横顔を見ていた麻衣が、せわしげに視線を逸らす。
「ぜ、全然気にしてなかったね」
「まあ、家族だし」
「そうだよね」
「そうだな」
デクレッシェンドがかかっているように小さくなる俺たちの声。
「……うん」
呟くような麻衣の返事を最後に、無音が訪れた。
川面を走り抜ける風が麻衣の髪を撫で、爽やかな香りを運ぶ。
横目に見た麻衣の表情は、かすかな憂いを帯びていた。
どうしてそんな顔をするのか。
答えが頭をよぎるが、すぐに消した。
(当たり前でしょ、兄妹なんだから)
遠山の言葉が脳裏をよぎる。
温もりを求める心も、胸を焼く焦燥も、俺たちの間にはない。
あってはならない。
昔、俺たちが交わした約束だ。
その象徴は今も麻衣の髪を結い、風に揺れている。
大丈夫。
仮に麻衣が崩れそうになったとしても、俺は揺らがない。
麻衣の幸せを考えれば、むしろそれは兄として当然の使命だ。
「ん?」
麻衣と視線が合う。
憂いは既に姿を隠し、にぱっと人懐こい笑顔が浮かんでいた。
「平気か?」
「なにが?」
「あ、いや」
自分の不安を麻衣に消してもらおうとしたことに気がついて、少し恥ずかしくなった。
「帰ろっか?」
視線を逸らせながら麻衣が言う。
俺の返事を待って、麻衣がフルートを片付け始めた。
夕日を照り返し唄口が光る。
「平気だ」
自分の口から、ぽつりと声が漏れていた。
麻衣がきょとんとした表情で俺を見る。
「なんでもないさ」
「実は、遠山先輩と間接キスしたかったとか?」
麻衣が唄口を俺に見せながら笑う。
からかっているような、試すような表情だった。
妙に大人びて見えて、胸の奥がきゅっとする。
「ま、まさか。なんで遠山と」
「ふ~ん、明日先輩に言っちゃおっと。ショックだろうな~」
「ちょとまて、そういう話じゃなくって……」
「あはは、焦ってる焦ってる」
気持ち良さそうに笑う麻衣。
「あ、アホなこと言ってないで、帰るぞ」
「お兄ちゃん」
麻衣が、わずかに強い語調で俺を呼び止める。
「私、お兄ちゃんと先輩がそういうことになっても怒らないよ」
「……だ、だから、俺は」
「よくできた義妹(いもうと)だからね」
麻衣の視線は、なぜか胸を射抜くばかりに強かった。
だがそれも、一瞬にして笑顔に覆われる。
「分かったよ。そん時はよろしくな」
麻衣の頭をぽんと撫でる。
「は~い」
いつも通りの気軽な返事。
気持ちが楽になっていくのが分かる。
「さ、片付け完了っ!」
ぱちり、
とフルートのケースを閉じる音が聞こえた。
それは、なにかのスイッチが入る音に似て、妙に耳の奥に残った。