空を見上げて

内田ヒロユキ

梅雨前の澄みきった空に、綿のような雲がぽっこりと浮かんでいる。
開け放たれた窓から流れ込んだ風が、髪を軽く撫でた。

「菜月、メシどうする?」
「進路相談で職員室に呼ばれてるの、ごめん」
申し訳なさそうに言って、菜月が席を立つ。
「フィーナは?」
「特に約束はないわ」
隣の席でフィーナが微笑む。
「一緒に学食でも行くか?」
「そうね……でも」
言葉を切って、フィーナは窓の外に広がる青空を見遣った。
「外で食べる?」
「いいかしら?」
「ああ、せっかく晴れてるし」
俺の言葉に、フィーナは優しく頷いた。

学食で買った昼食を手に、屋上へと続く階段を上る。
気がはやるのか、軽快な足取りで俺の数歩先を進むフィーナ。
階段を上るたびに翻るスカートを、後ろ手に押さえる姿が可愛らしい。
「達哉、素晴らしい景色よ」
屋上への扉を開けたフィーナが、明るい声を上げる。
フィーナに遅れること数秒。
俺も屋上に到着した。

屋上からは、満弦ヶ崎の街が一望できる。
駅前の繁華街、商店街、月人居住区、物見の丘公園……。
満弦ヶ崎湾の美しい弧と、先に続く広い外洋。
水平線より上は抜けるような蒼穹。
「こんな景色を見ながらの昼食なんて、贅沢ね」
中天を見上げ、フィーナが晴れ晴れと言う。
「あそこのベンチに座ろっか」
「ええ」
屋上には、休憩用の簡素なベンチがいくつか置かれている。
先客のいないものに近付く。
俺はポケットからハンカチを取り出し、ベンチに敷いた。
「どうぞ、姫様」
「もう、からかわないで」
苦笑して、フィーナがハンカチを返してくる。
「冗談だって」
「仕方の無いことを。……さあ、早く頂きましょう」
フィーナの言葉に、二人並んで腰を下ろす。
わずかに腕が触れ合い、彼女の体温が伝わってきた。
「じゃあ食べようか」
そう言って、俺は学食のビニール袋を開いた。


しばらくして、お互いに昼食を終えた。
「いつもより美味しかった気がするわ」
「こんな日は、外で食べるに限るね」
お腹を休めながら、ぼんやりと空を眺める。
「以前にも言ったことがあるかしら。青空は月人の憧れなの」
「聞いたような気がする」
「不思議ね、空がこんな素敵な色だなんて」
「大気があるせいだね」
「もちろん、科学的な理屈は分かっているのだけれど……それでも何か未知のものでできている気がするのよ、空は」
「月に持って帰れればいいんだけど」
「ふふふ……そうね」
空の先にある月を探すように、フィーナは空の彼方を見つめる。
横顔には、かすかに郷愁の色があった。
……。
彼女はいつか月に帰ってしまう。
当たり前のことなのに、なぜかチクリと胸を刺すものがあった。
「ふう」
「どうしたの、ため息をついて?」
フィーナと目が合った。
爽やかな風が吹きぬけ、彼女の美しい銀髪が舞う。
その美しさに思わず息を飲む。
「あ、いや……フィーナが来てから、もう一ヶ月になるんだなって」
気恥ずかしくなって目を逸らす。
「あっという間ね」
「もう慣れた?」
「ええ、みんな良くしてくれるから。こうして一緒に食事をしてくれる達哉にも感謝しているわ」
「感謝されたくて一緒に食事してるわけじゃないよ」
「では、どういうつもりなのかしら?」
瞳の奥を覗き込むように、フィーナが俺を見る。
「え、えっと……」
答えに窮した俺を見て苦笑するフィーナ。
「からかうなよ」
「さっき、私のことをからかったでしょう? そのお返しよ」
いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「……悪かったよ、フィーナ」
言いながら、俺は背もたれに体を預ける。
見上げれば、真っ青なカンバスを綿のような雲がゆっくりと横切っていく。
「綿菓子、ね」
フィーナがポツリと言う。
「え?」
「いいえ、何でもないわ。それより達哉」
フィーナが持っていた小さなトートバッグを開く。
「三時限目が調理実習だったのだけれど」
言いながら、クッキングペーパーの小さな包みを取り出す。
「クッキーを作ったの。良かったら、味を見てもらえるかしら?」
「いいのか、俺が食べちゃって。フィーナのクッキーなら、欲しがる奴がたくさんいると思うけど?」
「良いからわざわざ出したのよ」
フィーナが俺の手に包みを置く。
「じゃあ、遠慮なく」
包みを解くと、プレーンなクッキーが5個現れた。
バニラの甘い香りがふわりと漂う。
「頂きます」
一つを口に入れると、サクリとした歯ざわりの後、口の中一杯に甘みが広がった。
続けて、2つ、3つと食べる。
「どう、かしら?」
不安げな表情で、じっと俺を見るフィーナ。
「美味い」
俺の言葉にフィーナの表情が明るくなる。
「良かった。お料理はほとんどしたことがないから不安だったの」
「それで、これだけのものが作れるなんてすごいよ」
残りのクッキーを平らげながら言う。
「ありがとう、達哉」
笑顔のフィーナ。
彼女のことだから、手を抜かず、真剣に取り組んだのだろう。
一生懸命に生地をかき混ぜる姿が目に浮かぶ。
何事にも真摯に取り組むのは彼女の美点だ。
なかなか真似できるものではない。
「クッキーも食べられたし、役得だったな」
「そんな大層なものではないわ」
「お姫様の手作りクッキーだよ。第一、美味しかったし」
言いながら目を閉じた。
目を瞑っていても、日差しの暖かさで太陽の位置が分かる。
「ふふっ、眠ってしまうわよ」
「大丈夫……」
大丈夫と言いながら、じわじわと意識が遠のいていくのが分かる。
……。
…………。
満腹感と心地よい日差し。
この環境に抗うのは難しい。
「どうしても眠いなら、眠ってもいいわ。時間までには起こすから」
フィーナの声が子守唄のように聞こえる。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
「ええ、お休みなさい」
一緒にいる時に寝るなんて、失礼じゃないだろうか?
ふと、そう思ったが──
思っただけで、瞼を開くことはできなかった。

「ん……」
頬には柔らかな感触。
頬だけではない。
何か柔らかくて暖かいものに寄りかかっている気がする。
ゆっくりと目を開く。
……。
「おわ……」
右肩にフィーナの頭が乗っていた。
つまり、お互いに肩を寄せ合って眠っていたということだ。
これじゃ仲良しカップルになってしまう。

「すぅ……すぅ……」
かすかな寝息が聞こえてくる。
「フィーナ」
小声で呼びかけるが、フィーナに起きる気配はない。
さっきは新しい生活にも慣れたと言っていたけど──
やっぱり疲れてるんだろうな。
せめて、予鈴が鳴るまではこのままにしておこう。
そう決めて、体の力を抜く。
……。
空には綿菓子のような雲。
ときおり流れる爽やかな風。
周囲には楽しそうに食事をする学生と……
見覚えのある顔。
……。
…………。
「菜月っ」
校舎への入り口で、菜月が硬直していた。
「や、ヤア、私、ナツキ」
もう、訳が分からなくなってる。
「ん、私……」
折り悪くフィーナが目を覚ます。
「あっ、えっ、達哉、私っ」
ぱっと体を離したフィーナが、顔を真っ赤に染める。
「いや、あの……」
「ごめんなさい、本当に失礼なことをっ……」
「それはいいんだけど……あれ」
「……え?」
菜月の方を見るよう促す。
「な、菜月っ」
フィーナの顔が、菜月もかくやというほどの沸騰っぷりを見せる。
「菜月っ、これは、誤解で……」
「ご、ゴメンナサイ」
フィーナの声も届いていないのか、菜月は壊れた機械のような動きで校舎へと消えていった。
……。
…………。
抜けるように青い空の下、学生たちの視線が俺たちに突き刺さっていた。

前のページへ
文字設定を開く
文字サイズ
行幅
  • 狭い
  • 普通
  • 広い
フォント
  • ゴシック体
  • 明朝体
テーマカラー
  • ライト
  • ダーク
閉じる